HONDA CBX400F エンジンOH その13

2本目

ポンコツオーナーとの2ショット・・・・・・・・残念! ちゃんと同調取ってあげればもうちょい良くなるかな

終わり~





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OUT LINE

Author:OUT LINE
初めまして、OUTLINEの横尾勝己です。千葉県初の個人店型内燃機加工屋です。個人店なので小回りがきくと思うので便利に使ってほしいと思っています。車、バイクに限らずエンジンものなら何でもOKです。アルミ部品の削り出し品なんかも製作します。 旧車、エンジン、製作物、何でもきがるにご相談ください. TEL 0476-46-1099 FAX 0476-46-1022 携帯 080-5031-1169 ホームページ http://no1.to/outline 営業時間 10時~18時 水曜日定休


経歴

1977年

千葉県印西市(すご~く田舎)に農家の長男として、生まれる。3才くらいから機械に異様な興味をもっていたらしい(両親の話によると)特に耕運機のエンジンの音と排気ガスの匂いが好きだった。

1987年

ギヤ付きのバイクに乗れるようになった。小学校4年の時、今も持っている。DAXです。おじいちゃんに乗り方を教えてもらいました

1990年

地元の中学校に入学、部活動は3年間バスケ部に所属していたがあまり上手でなかったので大会にはほとんど出られなかった。
思い出は、1年の時に拾ってきたスクーターを乗り回していて警察に捕まったことと、担任の先生に50のモトクロスを貰った(道路はダメだから山の中を乗れと)そんな感じでした。それと、初めてエンジンをバラして改造したのは中一の時でした。(おやじと朝までかかった)卒業してから高校の入学までの間ライダースピット ウイナー でバイトさせてもらい
いまだに、お世話になってます。

1993年

県立の市川工業高等学校(機械科)に入学部活はまたバスケ部に入るが、1年の頃パーマをかけていったらクビになってしまった。
その後は、ずっと応援団でした。ほとんど活動はなかった。
学校には毎日キチンと通うことはまず!無かった(ほとんど行ってなかった)でも、バイトは毎日行った。初めての免許は中型二輪だった。バイトで貯めた20万を頭金にGS400を買った(高2の夏)湘南爆走族に憧れていた。そんな事ばかりしていて学校に行ってなかったが、何とか卒業することができた(卒業式後も、1ヶ月ちかく通った。結局卒業できたのは一番ビリだった。

1996年

地元でガソリンスタンドとコンビニがくっついたようなお店 十文字屋 の社長に拾ってもらった。高校の時に3年間ずっとバイトさせて貰ってそのまま社員にして貰った。正直、ほんと学校行ってなかったので、就職活動のしようがなかった・・・
19歳の頃サニートラックを購入してから車体からエンジンまでとことんバラしたり改造したりして毎日を過ごし給料のほとんどをつぎ込んでいた。そして、どんどんエンジンにはまって、もっともっと専門的な知識を求めるようになっていった。23歳の頃両親や十文字屋の社長に自分が今本当にやりたい事が見つかったと
相談しました。どちらもこころよく僕の気持ちを受け止めてくれ、がんばってこい!と送りだしてくれました。今でも感謝しています。

2001年
   
ずっと、気になっていた ナプレック にいきなり電話をして「働かせてください!」と言ったところすんなりと面接までいき OK とトントン拍子で就職がきまった。この時、自分は本当についてるな!と思いました。でも、本当は初めての一人暮らし、知らない土地での生活にビクビクしていました。そんなこんなでいきなり農家の長男の田舎者がエンジンのプロ、職人の世界に入り込んだのです。どんな職種でもそうかもしれませんが、最初は本当にすべてが解らないことだらけで大変でした。正直、完全に内燃機屋の仕事をなめてたと言うか仕事に対する姿勢みたいなものを知りました。内燃機屋の仕事は、「失敗しました ごめんなさい」は100パーセント通用しませんから、本気でお客様の気持ちを考えながら仕事に向き合わなければなりません。加工屋にとって一番大事なことだと今でも思っています。 しかし、何も出来ない自分は、そうゆうプレッシャーやすぐに会える親友のいない環境での生活は毎日が苦痛で苦痛でたまりませんでした。その時のすくいはナプレックの社長が仕事の後、よくラーメン屋に誘ってくれ 友達のように接してくれたおかげで何とかやっていける事ができました。
一年もすると、仕事の方もなれ 一人暮らしにもなれ
てきました。職人の世界では仕事が出来てなんぼ!ですから いい仕事が出来るようになってくれば自然と社内でも認められるようになりました。自分はどこにいっても態度がでかいので仕事の出来ないうちはよく
いじめられましたが、反面絶対に見返してやるという気持ちでいろんなこ事を勉強しました。時間があれば
本を読んで金属の材質や表面処理のことなど知識を蓄えました。
二年、三年すると少しずつ任される仕事が増えていきました。スロットル加工、コンロッド加工、プロペラシャフト加工等いろいろ・・後輩も入ってきてこの頃になると後輩を見て自分もこんなだったんだろうな~
なんて思いながら仕事してました。多分後輩からしたら、うるさい、細かい、嫌な先輩だったと思います。
四年目に入ったころ実家のいろいろな事情で千葉に帰らなければならなくなりました。最初はとりあえず金のためにトラックでも乗ろうかなどと考えながら社長に相談したところおもいもよらない事を言ってきた。
「千葉には土地と建物があるんだから自分でやったらどうだ」なんて自分でもいずれはこの世界にもどってこようとは思っていたが、社長から言われるとは思いもしませんでした。なぜか 横尾なら大丈夫だよ!って言うんですよなぜそう言ったのかは今でもよく解りませんが・・・そんな話をしたのが2005年の2月です
それからは、毎週のように、千葉に帰り実家の農業用
倉庫を片付け掃除していました。9月頃に国民金融公庫の方から融資も決まり10月に機械を購入とバタバタでした。この頃もなんかいろいろな事が順調で自分はついてるなぁと思いました。会社の仕事の方も引き継ぎと言うより後輩を毎日のように怒鳴りながら教えて、自分の仕事もこなし忙しかったです。
年内いっぱいはナプレックで仕事をする予定だったのですが、自分のわがままで11月いっぱいで辞めさせてもらうことにしてもらいました。

2006年

やっとの開業です。もちろん千葉ではコネもなにもありません。ましてや、ナプレックでは現場専門で営業なんてしたこともありませんから、はっきり!言って
この世界では無名もいいところです。ですが、地元の
仲間(幼稚園からの)や、まわりの人達に支えられてなんとかやっているのが、現状です。やっと、工具とかも揃ってきた感じです。使う工具類も一般的ではないので、高価で大変です。しかし、工具がなければ仕事ができませんから・・・
ナプレックのときのように、今は自分が世間に認めてもらえるように、細かい仕事でも一品、一品、自分の魂を込め 正しい いい仕事 をもっとうに作業しています。 こんな、未熟者の自分にも仕事をくれる方がいるわけで、そんな皆様に仕事をくださることに
感謝、感謝 です。現在はもう自分にはこれしかない!と、この仕事で絶対にやっていくんだ!と強い気持ちで毎日過ごしています。
自分の仕事=映し鏡=自分
と、思っています。
まだ、そんな大きな仕事は出来ませんが、皆様
暖かい気持ちで、この

横尾 勝己 
OUT LINE(アウトライン)

を、見てやってください。

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